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2013年09月29日

東京の紀州散策(17)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水②

東京の紀州散策の17回目は、前回の「東京の紀州散策(16)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水①」に引き続き、江戸時代の治水家で「紀州流」土木技術の祖といわれる井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそうべえ ためなが)が開いた見沼代用水を第2回目お送りします。

前回は、見沼代用水の最も上流である埼玉県行田市の利根川取水口から、星川との合流部分までの約2.5kmをご紹介しました。合流してから約18km先の久喜市菖蒲町までの区間は、見沼代用水はもともと流れていた星川を利用していますので、第2回目は再び星川から分流するところから、東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)に分岐する上尾市瓦葺までの約12.4kmをレポートしたいとおもいます。
わかりにくい方もいらっしゃると思いますので、見沼代用水の全体図を作成しました。今回は下の地図の「③星川分岐地点~東西縁分岐地点 12.4km」の部分を旅します。(下の地図をクリックすると拡大表示されます。)


今日(9/29)の関東地方は、秋晴れで絶好のお天気でした。スタート地点の久喜市菖蒲町は、JR宇都宮線(東北本線)の久喜駅から25kmほど西にあります。結構距離がありますので、今回は新たに購入した折りたたみ自転車に乗って、約1時間でスタート地点に到着しました。


北から流れてきた星川と見沼代用水は、ここで分かれます。まっすぐに南下するのが見沼代用水、東側に折れ曲がるのが星川です。井沢弥惣兵衛は、この分岐地点に八間堰 (はちけんせき)、十六間堰(じゅうろくけんせき)という2つの堰を設けました。名前の由来は、それぞれの堰の幅がそれぞれ八間(約14.4m)、十六間(約28.8m)だったことに由来するそうです。こちらの写真は現在の八間堰、十六間堰の様子です。(右奥の小さな方が八間堰、左が十六間堰。説明しなくてもわかりますね。)


この二つの堰を開閉することにより、見沼代用水に流す水量の調節を行っているのです。現在の堰は、戦後になって造り替えられたものですが、弥惣兵衛の時代には、堰全体が木で作られていて、堰板は数枚の角落し板を積み重ねていたのだそうです。「角落し板」といえば、以前『東京の紀州散策(14)井沢弥惣兵衛が開いた「見沼通船堀」』でご紹介した見沼通船堀の関でも使われていた方法ですね。それにしても八間・十六間という幅に板を積み重ねていくのは大変な作業だったと思われます。

この分岐地点の北側に「見沼弁財天(別名 星川弁天)」が祀られています。これも井沢弥惣兵衛の創建になるもので、水路の平安と豊作を祈願して建てられたものです。


星川と分岐した見沼代用水は、広大な水田地帯を南へと流れていきます。水路沿いには自転車・歩行者専用の「緑のヘルシーロード」が続いていますが、久喜市菖蒲町の約1.5kmの区間には萩が植えられてます。8月中旬から9月中旬が見頃なので、もう盛りは過ぎていましたが、満開の時期はきっときれいでしょうね。


分岐から3.3km下流に進んだところ、白岡市柴山に、常福寺という曹洞宗の小さなお寺がありますが、ここには、井沢弥惣兵衛の墓所があります。以前このブログで『東京の紀州散策(13)井沢弥惣兵衛の墓(千代田区・心法寺)』とご紹介したとおり、井沢弥惣兵衛のお墓は、千代田区麹町の心法寺にあるのですが、ここにあるお墓は弥惣兵衛が亡くなった29年後の明和4年(1767年)に、見沼代用水沿線村民がその遺徳を偲び、心法寺から分骨して墓石を建てたものだそうです。墓石は古いですが、今もきちんと手入れがされています。紀州生まれの弥惣兵衛が、遠く離れた埼玉の地の人々に愛されているというのはとても嬉しいことですね。


さて、常福寺のすぐ南側で、見沼代用水は元荒川立体交差をします。ここが柴山伏越(しばやま ふせごし)と呼ばれる場所です。伏越(ふせごし)というのは、横切る川の下をサイフォンの原理を使って水を通すもので、ここでは元荒川の川底を見沼代用水の水が流れています。
実は、井沢弥惣兵衛は、元荒川を横切るために、当初は伏越だけではなく、掛樋(かけどい)という木製の水道橋も併用していました。しかし、掛樋は元荒川の洪水でたびたび破壊されたために、開通から32年たった1760年には、伏越のみに改められたそうです。
現地の案内板には、江戸時代の柴山伏越の絵図(上)と現在の柴山伏越の写真(下)が並べて掲載されていました。どちらも見沼代用水は元荒川の下をくぐって、左から右へと流れています。弥惣兵衛の作った伏越は、すべて木製だったので、10年に1度程度は造り替える必要があったそうです。



今日の柴山伏越の写真です。見沼代用水の上流側から眺めたものです。川の向こう側の中央に見沼代用水の出口の水門が見えます。この川のさらに下を水が流れているとはとても思えませんね。


柴山伏越の向こうは蓮田市です。1kmぐらい先からは少し標高が高い丘陵地帯が2kmほど続きますが、ここには梨畑が広がっています。ちょうど収穫のシーズンで、たわわに実った梨が収穫を待っていました。


梨畑を抜けると、また水田地帯が広がります。このあたりの見沼代用水は丘陵の縁に沿って造られています。その理由は片方が丘ならば、堤防は片方だけ作ればいいからなのだそうです。こんなところにも井沢弥惣兵衛の知恵が活かされているのですね。


さて、見沼代用水は、東北新幹線の下をくぐり、JR宇都宮線の蓮田駅の西側を南下して、本日のレポートの終着地点である上尾市瓦葺にある東縁と西縁の分岐地点に向かいます。ここで見沼代用水は綾瀬川と立体交差をしますが、ここが瓦葺伏越(かわらぶき ふせごし)です。


実は、井沢弥惣兵衛は、ここは先ほども説明した掛樋(かけどい)という木製の水道橋で交差をさせています。その理由は、このあたりは軟弱地盤で伏越だと工事の難航が予想されたことや、見沼通船という運河としての利用のため、可能ならば伏せ越しではなく掛樋としたかったことなどによるものだそうです。この場所にある「掛樋史跡公園」には、掛樋の様子を表すレリーフがありました。左側から流れてきた見沼代用水が、木製の掛樋で綾瀬川を越えて、二股に分かれる様子がおわかりになると思います。


木製の掛樋はたびたび洪水で流されていたため、ようやく明治41年(1908年)にレンガ造りに改められました。しかし、昭和43年(1968年)にはコンクリート製のパイプで川の下を潜る伏越(サイフォン)となり、名称も瓦葺伏越となっています。この写真は、見沼代用水下流側から、上流の水門を写したものです。綾瀬川とは相当の高低差があるのがわかります。


元荒川、綾瀬川という2つの川と立体交差をして流れてきた見沼代用水は、ここから二股に分かれて、いよいよ当初の灌漑目的である見沼溜井(みぬまためい)跡の干拓地へと向かいます。写真の左側が見沼代用水東縁(ひがしべり)、右側が見沼代用水西縁(にしべり)です。


長々とレポートにおつきあいくださり、ありがとうございました。しかしこれだけ書いて、ようやく半分まできたという感じです。それにしても、今から280年以上も前に、これだけの用水路を開いた井沢弥惣兵衛の業績に改めて感嘆せざるを得ません。そして、埼玉の人たちが、今も見沼代用水を通して、井沢弥惣兵衛を偲んでいることにも驚かされます。

次はいつになるかわかりませんが、秋のうちには続きのレポートをお届けしたいと思います。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 23:58Comments(0)東京事務所通信

2013年09月23日

東京の紀州散策(16)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水①

東京の紀州散策の16回目は、江戸時代の治水家で、「紀州流」土木技術の祖といわれる井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそうべえ ためなが)が開いた見沼代用水です。

これまで、このブログでは『井沢弥惣兵衛の墓』『井沢弥惣兵衛が開いた「見沼通船堀」』と2回にわたり井沢弥惣兵衛をご紹介してきましたが、その最大の功績である「見沼代用水」をご紹介しないわけにはいきません。そこで、これから数回にわたって現在の「見沼代用水」をご紹介しながら、井沢弥惣兵衛の業績をさかのぼってみたいと思います。

「見沼代用水(みぬまだいようすい)」は、江戸時代の1728年(享保13年)に、八代将軍徳川吉宗の命により、紀州藩の役人であった井沢弥惣兵衛為永が、武蔵国に普請した灌漑農業用水です。用水は現在の埼玉県行田市の利根川より取水され、途中で東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)の2手に分かれています。東縁は東京都足立区まで、西縁はさいたま市南区まで続いていて、埼玉県を南北に縦断しています。その延長は、幹線水路の長さが約70km、支線水路をあわせると約100kmに及び、灌漑面積は約15,400haということですから、いかに長大な用水路かがおわかりいただけると思います。そんなことから、見沼代用水は、葛西用水(埼玉県)、明治用水(愛知県)とともに日本三大農業用水と称されています。(下の地図をクリックすると拡大表示されます。)


ここで、見沼代用水建設に至る背景を少しだけご説明しておきましょう。
江戸時代の初めの1629年、関東郡代であった伊奈忠治は、現在のさいたま市見沼区を流れていた川筋(現・芝川に当たる)をせき止めて、見沼溜井(みぬまためい)というため池を作りました。ところが、このため池には流入する水はほとんどなく、貯水能力は次第に低下していきました。さらに見沼周囲の新田開発が活発化すると、さらに水不足が深刻となってきたのです。

見沼ができて約90年後の享保元年(1716年)、徳川吉宗が八代将軍に就任すると、享保の改革が始まり、享保7年(1722年)には新田開発奨励策が示されます。幕府は、享保10年(1725年)見沼を干拓し新田開発することを決定しますが、見沼から水の提供を受けていた下流の農民たちは当然強く反対をしたのです。

この難問解決の切り札として、吉宗が紀州藩から呼び寄せたのが、井沢弥惣兵衛なのです。弥惣兵衛は紀州藩の勘定方として、大畑才蔵(おおはた さいぞう)とともに、紀の川北岸に藤崎井・小田井という2つの灌漑用水を作り、新田開発に大きく貢献しました。吉宗はその高い土木技術を関東で活かそうとしたのでしょう。ちなみに、弥惣兵衛の師である大畑才蔵は高齢のため1715年に隠居、1720年に死去しています。

弥惣兵衛は、見沼干拓と農業用水の確保という相反する2つの難問を解決するため、60kmも離れた利根川から水を取り入れる用水を建設します。そして、享保13年(1728年)に、見沼の代替となる用水「見沼代用水」が完成したのです。これにより、見沼跡地は干拓され、1,000haを超えるの新田(現在の「見沼たんぼ」)が開発されるとともに、見沼以外の用水路流域の沼地も次々と干拓され、享保の改革に大きく貢献したのです。

見沼代用水については、以下のホームページに詳しく掲載されていますので、ぜひご覧ください!!
※ さいたま市 「見沼たんぼ」ホームページ:「見沼代用水」
※  (社)農業農村整備情報総合センター「水土の礎」:「近世用排水システムの結実、見沼代用水」
※ 農林水産省:「見沼代用水を築いた井澤弥惣兵衛為永」

さて、前置きが長くなりましたが、そんな「見沼代用水」をご紹介する旅の第1回目は、見沼代用水の最も上流である、埼玉県行田市の北部、利根川の取水口から、星川合流地点までの約2.5kmです。私は、9/22(日)に、JR高崎線の熊谷駅から秩父鉄道で行田市駅へと向かいました。市の観光情報館で無料のレンタサイクルを借りて、約20分で取水口のある見沼元圦(もといり)公園にたどり着きました。


現在の取水口は、昭和38年(1963年)に完成した利根大堰のすぐ横にあります。ここは、見沼代用水のほか、利根大堰完成後につくられた武蔵水路、埼玉用水路の取水口にもなっています。ここから埼玉や東京に大量の飲料水や農業用水が供給されているのです。


井沢弥惣兵衛が作った取水口は、現在の取水口のすぐ西隣にありました。昭和43年(1968年)に廃止されましたが、現在は見沼代用水元圦公園となり、祠や石碑があります。中央の祠は「元圦鎮守弁財天」といい、水の神様である弁財天と井沢弥惣兵衛を祀っているそうです。


石碑には、「紀州人井澤彌總兵衛」の文字が見えます。


見沼代用水沿いは「緑のヘルシーロード」という自転車・歩行者道路になっています。桜並木が続いているので桜の時期にはきっときれいでしょうね。


取水口から約2.5km、見沼代用水はここで星川と合流します。そして、約18km先の久喜市菖蒲町で再び分流するのです。写真右側が見沼代用水、左が星川です。


ちなみに、今回訪れた行田市は昨年映画にもなった「のぼうの城」の舞台・忍(おし)城のある場所です。映画では、野村萬斎扮する主人公の成田長親を紀州雑賀衆が鉄砲で狙撃するシーンが描かれていましたが、石田三成の忍城水攻めに雑賀衆が参加したという記録も残っているそうです。


井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水をたどる旅の第1日目はこれでおしまいです。気がつけば埼玉県と群馬県の県境まで来ていましたが、和歌山とは全く関係ないと思っていた行田市にも、こんなふうに紀州の人々の足跡が残っているのですね。見沼代用水については、また日を改めて第2弾、第3弾をお届けしたいと思います。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 12:27Comments(0)東京事務所通信

2013年09月21日

東京の紀州散策(15)紀州徳川家の祈願寺・赤坂不動尊(港区)

東京の紀州散策の15回目は、港区赤坂4丁目にある赤坂不動尊(あかさか ふどうそん)をご紹介します。場所は、地下鉄赤坂見附駅から歩いて5分ぐらいで、繁華街として知られる赤坂一ツ木通り沿いにあります。和歌山県東京事務所のある都道府県会館からは歩いて10分ぐらいのところです。


行ってみると、一ツ木通りに面した場所に赤い柱の門があり、「赤坂不動尊」と書かれていますので、場所はすぐにわかります。


赤い門をくぐると、急な坂道に、提灯が連なるアーケードが続いていますが、これが参道です。


参道脇の地蔵さんの右側には、「紀州徳川家御祈願所」の石碑が建てられています。


この赤坂不動尊は、正式名称を智剣山威徳寺(ちけんざん いとくじ)といい、真言宗智山派のお寺です。本尊はもちろん不動明王ですが、何と天台宗を開いた最澄(伝教大師)作伝えられているそうです。
延暦24年(805年)、最澄が唐から帰国の途中、暴風雨のため船が沈みそうになったとき、自分が作った不動明王像を海に沈めて祈願し、無事帰国した。その後、天安2年(858年)に、越後出雲崎の漁夫が、不漁続きの時に、毎晩不思議な光を見て探したところ、海の中から最澄が沈めた不動明王像を発見した。
その後、永承6年(1063年)に、源頼義が、前九年の役の戦勝を祈願し霊験を得たので、下総国米沢(現在の東京都墨田区周辺)の寺にこれを祀った。さらに、鎌倉時代の文永11年(1274年)には、八代執権北条時宗も元寇の先勝を祈願した。
ここまで言い伝えが続くと、本当かな、と思いますが、言い伝えとして聞いておきましょう。

その後、慶長5年(1600年)、当時の住職であった良台法印が本尊の夢のお告げにより、現在地である武蔵国人継(一ツ木)に寺を移転しました。眼下に溜池を望む高台であったことから、池見山阿遮院と号したそうです。江戸幕府が開かれる前ですから、東京では非常に歴史がある寺ということになりますね。

江戸時代に入ると、紀州大納言(紀州徳川家)の祈願寺となったことから、人々に広く信仰されるようになり、大いに栄えました。人々はその威徳を尊んで、智剣山威徳寺と呼ぶようになりました。本堂内陣には、今も紀州徳川家奉納の厨子や仏具などがあるのだそうです。
本堂はこぢんまりとしていますが、江戸の火災や関東大震災、東京大空襲など、いくたびの災禍を免れています。まさにお不動様の霊験なのでしょう。その霊験あらたかなところが、きっと今も赤坂不動尊として信仰を集めている理由なのでしょうね。


以前ご紹介した赤坂氷川神社といい、この赤坂不動尊といい、赤坂という場所は、紀州徳川家が作った町なのだなということを改めて感じました。皆さんも、お暇があればぜひ訪れてみてください!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 18:04Comments(0)東京事務所通信

2013年08月25日

東京の紀州散策(14)井沢弥惣兵衛が開いた「見沼通船堀」

東京の紀州散策の14回目は、前回に引き続き、江戸時代の治水家で、「紀州流」土木技術の祖といわれる井沢弥惣兵衛ゆかりの地を訪ねます。ご紹介するのは、井沢弥惣兵衛が開いた国指定史跡「見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)」です。場所は、さいたま市緑区のJR武蔵野線・東浦和駅のすぐ東側にあります。


井沢弥惣兵衛については、前回の「東京の紀州散策(13)井沢弥惣兵衛の墓(千代田区・心法寺)」で簡単にご紹介していますのでごらんください。

さて、「見沼通船堀」は、井沢弥惣兵衛が享保16年(1731年)に開削した日本でも日本最古の部類に入る閘門式運河です。享保13年(1728年)、井沢弥惣兵衛は、武蔵国(現在の埼玉県・東京都)にあった見沼の干拓とその周辺の農業用水の確保のため、「見沼代用水」を開削しました。もともと見沼代用水は、水田等の灌漑目的だったのですが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても利用できると考えたのは当然のことでしょう。しかし、見沼代用水は、江戸まではつながっていなかったため、つながっている芝川との接続するために開削されたのが見沼通船堀です。

(地図は、見沼代用水土地改良区ホームページより転載)

見沼通船堀がある場所は、東西二手に分かれている見沼代用水と、その中央を流れる芝川の間は数百メートル程度しか離れてなく、水路を作るには最適な場所でした。しかし、代用水は芝川より約3メートルほど高い位置を流れているために、水位差のある場所で船を通すために、閘門式の運河がつくられたのです。閘門式運河といえば、パナマ運河で採用されている方式ですね。

見沼通船堀は、江戸時代後期から明治時代にかけては、水運の要衝として重要な役割を果たしていましたが、昭和初期以降からは、運河としては使用されていませんでした。しかし、日本に残る閘門式運河としては最古の部類にはいる遺稿であったため、昭和57年(1982年)、国の史跡に指定されました。さらに平成6年(1994年)から平成9年(1997年)にかけて、関(閘門)の復元工事が行われ、毎年8月には、復元された閘門を利用して、さいたま市教育委員会の主催で「見沼通船堀閘門開閉実演」が行われています。

今年の「見沼通船堀閘門開閉実演」は8月21日でしたので、私もその様子を見てきました。下はそのチラシです。


実演が行われたのは、芝川から東側の見沼通船堀東縁(ひがしべり)です。当日は、蒸し暑い天気にもかかわらず、数百人の人々が集まり、熱心に説明を聞いていました。


運河には2か所の関が設けられていて、この関の開閉により船が水位差を超えていきます。こちらが下流側の「一の関」です。


こちらが上流側の「二の関」。構造は一の関と同じです。


下流の芝川から入ってきた船はまず「一の関」を超えて船だまりに入ります。そして「一の関」に「角落板(かくおとしいた)」と呼ばれる幅18センチ、厚さ6センチ、長さ3.3メートルの板を積み重ねて、徐々に水位を上げていきます。この作業はすべて手作業で行われます。


角落板を10枚程度重ねると、「二の関」を超えられる水位まで上昇しますので、船は先へと進みます。そして今度は「二の関」をせき止めて、水位の上昇を待って、見沼通船堀へと進んでいくのです。この日は水量の関係で水位の上昇は1メートル程度でしたが、蓄えられた水の上を、船がすいすいと進んでいました。


このようにして、関を2つ乗り越えて、上流の見沼代用水へと船は進んでいきます。下る際にはこれと反対の手順で、蓄えた水を放流しながら船が下っていくのです。実演の最後には、角落板を1枚づつ外して水位を下げる様子を見せてくれました。


見沼通船堀は、現在は運河としての役目を終えていますが、通船堀に沿って遊歩道が整備されていて、両側には桜の木が植えられています。桜の時期はきっときれいでしょうね。



また、すぐ近くには、江戸時代に行き交う船の差配を行っていた「鈴木家住宅」も残されています。


井沢弥惣兵衛の開いた「見沼通船堀」、いかがでしたか。現地に赴いてみて、弥惣兵衛の残したものを目の当たりにすると、その偉大さをひしひしと感じます。これまで2回のレポートでは、最大の功績である「見沼代用水」そのものについてはまだ触れていませんので、改めてレポートしたいと思います。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 07:02Comments(0)東京事務所通信

2013年08月17日

東京の紀州散策(13)井沢弥惣兵衛の墓(千代田区・心法寺)

東京の紀州散策も13回目。今回は、千代田区麹町の心法寺にある井沢弥惣兵衛の墓をご紹介します。

まずは、井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそうべえ ためなが)について簡単にご紹介します。弥惣兵衛は、江戸時代の治水家で、いわゆる「紀州流」の土木技術の祖として知られています。承応3年(1654年、1663年生まれ説もある)、那賀郡溝ノ口村(現在の和歌山県海南市野上新)の豪農の家に生まれ、元禄3年(1690年)、紀州藩2代藩主の徳川光貞に召し出され、紀州藩の勘定方に就任しています。
そして、大畑才蔵(おおはた さいぞう)とともに、紀の川北岸に藤崎井・小田井という2つの灌漑用水を作りました。ここで、弥惣兵衛は大畑才蔵から紀州流の土木技術を受け継いだのでしょう。

弥惣兵衛の紀州藩での最大の業績は、現在の海南市に宝永7年(1710年)に築いた「亀池」です。亀池は和歌山県下最大級のため池として知られ、現在も143haの農地を潤しています。

享保元年(1716年)に八代将軍に就いた徳川吉宗の命により、享保7年(1722年)に弥惣兵衛は幕府に出仕し、武蔵国(現在の埼玉県・東京都)に見沼代用水(みぬまだいようすい)を開くなどして、関東平野での新田開発に大きく貢献しました。これらの弥惣兵衛の功績により、これ以降幕府の治水技術は、紀州流が主流となっていきます。その後、享保16年(1731年)に勘定吟味役、享保20年(1735年)には美濃国郡代となり、元文3年(1738年)に亡くなっています。

その井沢弥惣兵衛が眠っているのが千代田区麹町にある心法寺です。番地は麹町となっていますが、JR四ツ谷駅から半蔵門方面に歩いて3分ぐらいの場所です。ちなみに和歌山県東京事務所からは歩いて15分ぐらいの場所です。


麹町大通りから通路を北に入ると心法寺の正面です。心法寺は浄土宗のお寺で、徳川家康とともに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者とのことですので、江戸初期の創建ですね。また千代田区内では唯一墓地があるお寺として知られているそうです。


井沢弥惣兵衛の墓は、墓地のほぼ中央にありました。建てられてから300年近く経っていますので墓石は古くなっていますが、新しい案内柱がありましたのですぐわかります。


墓石の側面には「俗名 井澤彌總兵衛爲永 行年七十六」と記されています。


以上が、心法寺の井沢弥惣兵衛のお墓のご紹介です。なお、井沢弥惣兵衛が作った「見沼代用水」については、見所満載なので、後日改めてレポートしたいと思います。

(文責:東京事務所 林 清仁)
  
Posted by 広報ブログ編集長 at 08:37Comments(0)東京事務所通信

2013年07月28日

東京の紀州散策(12)北区にあるその名もずばり「紀州神社」

毎日暑い日が続いています。今年の東京は、今のところ和歌山よりは少し気温が低いようですが、それでも日中はうだるような暑さです。そこで、今日は涼しいうちに出かけようと思い、朝6時に起きて、北区豊島(としま)にある「紀州神社」へ行ってきました。場所はJR京浜東北線の王子駅からだと歩いて20分、地下鉄南北線の王子神谷駅からは歩いて10分ぐらいの所にあります。


近くの豊島中央通り商店街は、ちょうど「豊島七夕祭り」の七夕飾りの期間中で、通りがとてもきれいに飾り付けられていました。人がいないのは朝7時30分ぐらいだからです。


商店街を北に抜けると、住宅地の中に紀州神社が見えてきました。


鳥居の右側には「紀州神社」と大きく書かれた石碑があります。私たち紀州の人間にとっては、こんなところで紀州に会えると、ちょっぴり誇らしくて、うれしくなってきます。


この紀州神社は、鎌倉時代後期の元亨年中(1321-24)に、紀州熊野から来た鈴木重尚(穂積二郎左ヱ門重尚)が地元の豊島氏とはかり、紀州名草郡の五十太祁神社(和歌山市の伊太祁曽神社のこと)を王子村に勧請したのがはじまりだそうです。その後天正年中(1573-92)に、豊島村と王子村の争いの中で何度か場所を移したのち、現在の豊島6丁目に落ち着いたとのことです。昔は「紀州明神」と呼ばれており、今でも地元の人々からは「紀州さま」と呼ばれ、親しまれているそうです。
祭神は、五十猛命(いたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、柧津姫命(つまつひめのみこと)、の3柱。当然、和歌山市の伊太祁曽神社の祭神と同じで、木の神様とされていることも伊太祁曽神社と同じです。

拝殿の額にも「紀州神社」の文字が。


こちらは拝殿の扉。熊野の守り神の三本足の「八咫烏(やたがらす)」の紋章があります。伊太祁曽神社と熊野三山がごっちゃになってきますが、堅いことは言わないでおきましょう。


以上が、紀州神社の訪問記です。こうやって見ると、昔から紀州の人々は全国各地で活躍していたことがわかります。そんな中でも、紀州の神社を祀って、故郷のことは忘れないという思いが強かったのではないでしょうか。今はすっかり都会となってしまい、紀州という名前だけが残っているのでしょうが、いにしえの紀州人の思いに少し心を打たれました。
皆さんもお暇なときに一度訪れてみてください。


(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 11:39Comments(0)東京事務所通信

2013年07月13日

東京の紀州散策(11)紀州藩御殿を移築した横浜・本牧の三渓園

今日から3連休ですね。いつもご紹介している東京の紀州散策、今回は、少しだけ遠出をして、横浜まで行ってきました。ご紹介するのは横浜市中区の本牧(ほんもく)地区にある三渓園です。
場所は、横浜駅から市営バス本牧車庫行きで35分ぐらいの桜道バス停から歩いて3分ぐらいの場所にあります。


三渓園のある本牧地区は、古くから景勝地として知られていたところだそうです。この本牧の谷あいの地に、明治から大正にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名:富三郎)が造りあげた日本庭園です。原三渓は、全国各地の古建築を購入してここに移築し、庭園とともに整備を進めていき、明治35年(1906年)に三渓園として一般開放しました。その後、関東大震災や第二次世界大戦などにより、一部の建物は失われてしまいましたが、。昭和28年(1953年)には財団法人三溪園保勝会が設立され、庭園の整備が行われて現在に至っています。

三渓園には原三渓の死後も、古建築の移築は続けられていて、現在園内には、国の重要文化財建造物10件12棟(移築元:京都5棟、和歌山3棟、神奈川2棟、岐阜1棟、東京1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物があるということですから、まさに文化財の宝庫と言えるでしょう。

約17万5千平米(53,000坪)という広大な園内に入ると、大きな池が出迎えてくれます。そしてその池の向こうに丘の上には、三重塔が見えますね。


建物を一つ一つ紹介しているときりがありませんので、和歌山から移築したとされている「臨春閣」をご紹介します。臨春閣はこの三渓園の古建築の中でも最も知られたものの一つで、国の重要文化財に指定されています。


立て看板によれば、この建物は紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣が、慶安2年(1649年)和歌山の紀ノ川沿い(現在の岩出市)に建てた夏の別荘「巖出(岩出)御殿」だと言われています。8代将軍吉宗は幼少の頃、この建物で育ったのだそうです。また、数寄屋風書院造りの建物としては、京都の桂離宮と並び称されているのだそうです。
臨春閣は、3棟の異なる建物が廊下でつながっています。そして、内部は、狩野派の絵師による襖絵や、床の間、棚などが設けられており、質素な中にも趣のある数寄屋風書院造りの特徴があらわれています。


この臨春閣、ここ三渓園には大正6年(1917年)に移築されたものですが、直接和歌山から移築したものではありません。原三渓は、大阪の春日出新田(現在の此花区春日出南1丁目)にあった建物を明治38年(1905年)ころに購入し、鉄道を使って横浜に運んだのだそうです。この建物は、大阪では「八州軒」と呼ばれていて、享保年中に紀州藩から拝領した建材により建築されたという記録が残っているそうです。そのため、後世の研究家が、ちょうど同じ時期に解体されたと記録のある紀州藩の「巖出御殿」を移築したのが「八州軒」ではないか、と考えるようになったのだそうです。
(詳しくは、有隣堂のホームページの「横浜・三溪園の建築 臨春閣の謎を解く」を参照してください。)

いずれにせよ、紀州徳川家のゆかりの建物であることには間違いはなく、建物のすばらしさは言うまでもありませんね。



このあと、私は広大な園内の建物を一つ一つ見て回ったのですが、きっちり1時間かかりました。戦後岐阜県から移築された合掌造りの住宅は、住宅内に入ることができ、その規模に圧倒されました。また、ちょうど蓮の花が見頃を迎えているのだそうですが、蓮の花が開いているのは、早朝6時ごろから9時頃までで、日中は閉じてしまい、さらには開いて4日目には散ってしまうので、早起きしないと観察できないそうです。私は行ったのは午前11頃でしたので、散る直前の1つだけを写真に納めることができました。


横浜・本牧の三渓園、ゆっくりするにはとてもいいところですね。また、園内の展望台からは、横浜港も一望できるので、観光地としてもおすすめです。もし横浜にお出かけの際には、一度立ち寄ってみてください。


(文責:東京事務所 林 清仁)
  
Posted by 広報ブログ編集長 at 18:43Comments(0)東京事務所通信

2013年07月07日

東京の紀州散策(10)吉宗が社殿を建立した赤坂氷川神社

東京の紀州散策、今回ご紹介するのは港区赤坂にある赤坂氷川神社です。場所は、赤坂と六本木のほぼ中間に位置します。地下鉄だと、千代田線の赤坂駅、南北線の六本木一丁目駅、または大江戸線の六本木駅のちょうど真ん中ぐらいにあります。


赤坂氷川神社は、天歴5年(951年)、現在の赤坂4丁目の一ツ木台地に祀られたのが起源です。江戸時代に入り、紀州徳川家の赤坂邸(現在の赤坂御苑)からほど近いところにあったことから、紀州徳川家の産土神(うぶすながみ)として崇められてきました。そして徳川吉宗が8代将軍に就いた後、我が子・家重の産土神として、享保14年(1729年)に現在地に現社殿を造営を命じ、翌15年(1730年)に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、将軍吉宗も直々に参拝をしたとのこと。その後、歴代将軍の朱印状の下付を受けるなどしてきた神社です。
ですから、紀州徳川家とも、吉宗以降の将軍家とも非常につながりの深い神社ということになります。

こちらが赤坂氷川神社の正面の入り口です。境内には木々が生い茂り、とても静かです。すぐそばには赤坂や六本木があるとは思えないようなたたずまいです。


鳥居をくぐってすぐ右側には推定樹齢400年の大イチョウの木があります。この木は吉宗が社殿を建設する前から、この地に立っていたことになりますね。


そしてこちらが、吉宗が造営した社殿です。


東京都教育委員会が設置した看板には次のように掲載されています。
この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730年)に建てられました。吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ簡素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
  平成22年(2010年)3月 東京都教育委員会 
わたしには建築の詳しいことはわかりませんが、小さいながらもどっしりとした建物だな、という印象を受けました。


この神社には、紀州徳川家の赤坂邸で使われていた「櫓太鼓(やぐらだいこ)」が残されています。赤坂氷川神社のホームページによれば、明治2年(1869)頃に紀州藩から納めらたもので、太鼓の内面に墨書で「紀州邸 櫓太鼓 天保十亥年十二月吉日」「江戸浅草新町 丸山□右衛門」「御太鼓師重好」と記されているとのこと。時を告げる太鼓で、現在も毎日打ち鳴らされているそうです。私が行ったときには、拝殿の左奥に置いていました。


以上が、赤坂氷川神社のレポートです。都会のど真ん中に、こんなに木々が生い茂っている静かな場所があり、しかも紀州藩や吉宗の歴史に触れることができるところがあるとは驚きです。皆さんもぜひ訪れてみてください。

(文責:東京事務所 林 清仁)   
Posted by 広報ブログ編集長 at 17:47Comments(0)東京事務所通信

2013年06月29日

東京の紀州散策(9)紀州徳川家ゆかりの青山熊野神社

東京の紀州散策、今回は渋谷区神宮前にある青山熊野神社をご紹介します。

今回青山熊野神社を紹介するきっかけとなったのは、私が以前このブログで「東京の紀州散策(3) 新宿区・十二社熊野神社と中野区・成願寺」とご紹介した記事に対してコメントをいただいたことです。
私は、この記事の中で、全国各地に3000社もある「熊野神社」は、みな熊野三山の祭神を勧請された神社だと説明していたのですが、それに対してこのようなコメントをいただきました。
「熊野神社」の全てが”所謂熊野三山”から御霊分けされたわけではありませんし、熊野三山の神々が祀られているわけでもありません。
例えば渋谷区神宮前の熊野神社(青山熊野神社)。こちらの御祭神は五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命、伊弉冊命です。現在の赤坂御所にあった徳川頼宣卿の邸内社が町民の請によって奉遷された神社です。御祭神の3柱は和歌山市鎮座の伊太祁曽神社の祭神であり、熊野を名乗っているのは紀州の意味と推察されます。
そこで、一度訪れてみたいと思っていたのですが、先日渋谷を訪れたついでに、ちょっと青山熊野神社に寄り道をしてみました。

場所は、地下鉄銀座線外苑前駅から北西に歩いて5分ぐらいのところです。ちょうど神宮球場の西側になりますね。


こちらが正面から撮った写真です。表参道や外苑前のおしゃれな店が建ち並ぶ通りからちょっと中に入ると、こんな静かな神社がたたずんでいることに驚きました。


この青山熊野神社は、もとは徳川頼宣公が元和5年(1619年)に紀州藩初代藩主に封ぜられた際に、徳川家の赤坂邸(現在の赤坂御用地)に領国紀州より勧請して、紀州徳川家の鎮守として創建されたのだそうです。その後、町民の要請により青山路次町(現明治神宮外苑青山中学付近)に仮殿を建設、さらに正保元年(1644年)に現在地に移り、翌2年には本殿・拝殿などの造営が完成し、青山総鎮守となったのですが、その後も神社の祭礼の際には紀州家からの代参も続いていたそうです。

祭神は、五十猛ノ命(いだけるのみこと)、大屋津姫ノ命(おおやつひめのみこと)、抓津姫ノ命(つまつひめのみこと)、伊弉冊ノ命(いざなみのみこと)の4柱ですが、コメントでご指摘のとおり、前の3柱の祭神は、和歌山市の伊太祁曽神社の祭神と同じですね。
伊太祁曽神社は、「紀伊国一宮」と称されていますから、その祭神を勧請したものが紀州藩邸内に奉られたとしても不思議ではありませんね。伊太祁曽神社が木の神様として信仰されているように、ここ青山熊野神社も植林、樹林の神様として、建築業界の人々の信仰を集めているそうです。

なお、神社の名称については、江戸時代までは「熊野大権現」と呼ばれていたそうですが、明治の神仏分離令で「熊野神社」という名前になったようです。祭神を考えるとあまり熊野とは関係ないようですが、きっと「紀州」=「熊野」という感じで使われていたのでしょう。確かに現代においても、東京で「和歌山」といってもどこにあるのかわからない人が多いですから、江戸時代にはもっとアバウトな認識だったのかも知れません。

境内の手水石には、徳川家の葵の紋がついています。新しいもののようですが、紀州徳川家の鎮守であることが理由なのでしょう。


こちらが社殿ですが、結構新しいですね。あと驚いたのが、向かって右側に「青山熊野神社ビル」というモダンな建物があり、テナントビルとして利用されています。何とも都会的です。


以上、青山熊野神社の訪問記でした。三つ葉葵の紋以外には、和歌山を感じさせるものは残ってはいませんが、ご興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 17:59Comments(0)東京事務所通信

2013年06月16日

東京の紀州散策(8)大田区の池上本門寺~紀州徳川家墓所

東京の紀州散策、今回ご紹介するのは、東京都大田区池上にある、日蓮宗の大本山、池上本門寺です。


池上本門寺は、東急池上線の池上駅から徒歩10分ぐらいの所にあり、小高い丘の上に全体に境内が広がっています。
正式名称は、「長栄山大国院本門寺」と言います。日蓮宗の開祖・日蓮が61歳でなくなった場所に建てられた寺院なので、非常に広大な敷地に、多くの建物が建っています。第二次世界大戦の空襲で、五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く建物は焼失したのは残念です。
こちらが仁王門(三門)から境内を見た写真です。


もうひとつ池上本門寺は、多くの著名人のお墓があることでも知られています。日蓮はもちろん、幸田露伴や、力道山のお墓もあります。今回、どうして池上本門寺を取り上げたのかというと、実はここには紀州徳川家の墓所があり、大田区の文化財にも指定されているのだそうです。寺務所に行き、境内案内図をいただいて、早速紀州徳川家の墓所へと向かいました。


紀州徳川家の墓所は、西側の斜面を階段で下りていったところにある「宝塔」の奥にあります。階段の奥に立派な石造りの墓石が見えてきます。


なぜ、池上本門寺に紀州徳川家の墓所があるのかというと、初代紀州藩主・徳川頼宣公の生母であり、徳川家康の側室であった養珠院お万の方が日蓮宗の信者で、頼宣も日蓮宗に帰依しており、さらに頼宣が法華経を信奉していた加藤清正の娘・瑤林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものとなり、江戸における紀州徳川家の菩提寺となったのだそうです。この墓所には、養珠院、瑤林院をはじめ、主として江戸藩邸で没した藩公の内室(令夫人)が埋葬されています。


墓所には藩公の内室や子供の墓塔が8基並んでいます。見取り図は以下の通りです。

1.松寿院宝篋印塔 … 頼宣の娘松姫の供養塔。
2.真空院宝篋印塔 … 頼宣の子、四歳で夭折している。
3.養珠院宝塔 … 徳川家家康の側室お万の方で、頼宣と水戸の頼房の生母。本墓は山梨県の大野山本遠寺にある。
4.妙操院一重塔 … 十一代将軍家斉の側室で六男斉順の生母。
5.天真院宝塔 … 二代光貞の側室で伏見宮貞清親王の姫・安宮。
6.揺林院宝塔 … 頼宣の正室で加藤清正の娘・八十姫。
7.寛徳院宝塔 … 八代将軍吉宗の正室で伏見宮貞致親王の姫・真宮。
8.霊岳院宝塔 … 光貞の三女で吉宗の姉にあたる育姫。

主なものを写真でご紹介します。こちらが3.養珠院宝塔です。階段を登った正面に見えたものです。


こちらは6.揺林院宝塔。江戸で亡くなり、池上本門寺で荼毘に付されたそうです。


こちらは7.寛徳院宝塔。吉宗の正室・理子(まさこ)女王のお墓。吉宗が八代将軍となるより前、20歳の若さで死去したそうです。墓石の痛みが進んでいて、かろうじて「寛徳院」の文字が確認できます。


なお、池上本門寺には、この紀州徳川家墓所とは別の場所に、吉宗の側室であった「深徳院」(9代将軍徳川家重の生母)、「本徳院」(田安徳川家初代当主・徳川宗武の生母)のお墓もあるとのことで、そちらにも行ってみたのですが、ちょうど墓石がすべて取り除かれて工事中になっていました。きっと整備をし直すのだと思います。

以上、大田区の池上本門寺にある紀州徳川家の墓所をご紹介しました。みなさんも機会があれば、ぜひ訪れてみてください!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 12:49Comments(0)東京事務所通信