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2014年04月05日

東京・駒込の「六義園」で「わかやま紀州館」出張販売中!4/5,6の2日間

東京にある和歌山県アンテナショップ「わかやま紀州館」のtwitterに、本日4月5日と明日の2日間、東京・文京区駒込にある国指定の特別名勝「六義園(りくぎえん)」で、和歌山県産品の出張販売を行うというツイートがありましたので、今朝から早速行ってきました。

「六義園」は、柳沢吉保が築いた大名庭園で、「和歌の浦」をはじめ驚くほど多くの和歌山の地名が数多くつけられていて、和歌山にとっては非常にゆかりの深い庭園です。私が前回訪れたのは去年の紅葉の季節で、その時の様子は『東京の紀州散策(22)「六義園」ライトアップ12/8まで』でご紹介しています。
春の六義園は園内入ってすぐのところにある見事なしだれ桜が有名で、これに合わせて夜もライトアップされています。しだれ桜は、ソメイヨシノよりも1週間ぐらい早く咲くそうで、あいにく昨日東京を襲った雷雨やひょうの影響で、今朝のしだれ桜は、ほとんど散ってしまっていました。


わずかに、木のてっぺんのほうに、花びらが残っている枝を発見しました。


しかし、ソメイヨシノなどの桜は今が満開。園内では朝から大勢の人が訪れ、散策を楽しんだり、茶店で休憩したりしていました。


さて、園内入口にある「わかやま紀州館」コーナーをご紹介します。まだ開園してすぐでしたが、早速商品を購入されているお客様がいらっしゃいました。販売している商品ですが、果物では、今が旬の柑橘類、はっさく、デコポン、清見オレンジです。さすがは果物王国・和歌山ですね。


この他にも、みかんジュースや、ジンジャエール、梅干、和歌山ラーメンなど、和歌山の産品がたくさん用意されています。



私は、清見オレンジと、和歌山ラーメン、それにすさみ町のイノブタから作ったヘルシージャーキーを購入し、とっても満足しました。
六義園での出張「わかやま紀州館」は、今日と明日4月6日(日)の2日間です。夜はライトアップ期間中ですので、特別に午後9時まで開園時間が延長されています。春休み最後の週末は、どうぞ六義園にお出かけください。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 東京通信員 at 11:54Comments(0)東京事務所通信

2014年03月30日

東京の紀州散策(26)吉宗ゆかりの桜の名所(3)【飛鳥山】北区

東京の紀州散策は、吉宗ゆかりの桜の名所シリーズをお届けしています。昨日ご紹介した「東京の紀州散策(24)吉宗ゆかりの桜の名所(1)【御殿山】」「東京の紀州散策(25)吉宗ゆかりの桜の名所(2)【隅田川の桜堤】墨田区」に引き続き、第3回目は北区王子にある「飛鳥山」です。私は、昨日(3/29)の午後、墨堤の桜を見たあとで向かいました。
場所は、JR京浜東北線の王子駅のすぐ東側にある小高い山で、現在は飛鳥山公園として整備されています。


東京都北区のホームページにある飛鳥山公園の説明にはこのように掲載されています。
飛鳥山公園といえば「さくら」が有名です。
この地を桜の名所に仕立て上げたのは、八代将軍徳川吉宗でした。約280年前、吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのです。こうして江戸の新しいお花見の名所として誕生した飛鳥山は、当時、桜の名所地では禁止されていた「酒宴」や「仮装」が容認されていたため、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しみました。
飛鳥山は、明治6年、太政官布達によって、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定され、平成の現在も「憩いと出会い」の場として親しまれています。
吉宗が飛鳥山に桜を植えたのには、もう一つの理由があります。飛鳥山のある王子には、紀州熊野の若一王子権現(現在の王子神社)があり、故郷ゆかりの地に愛着をもった吉宗は、一面の松林だった飛鳥山に1,270本の桜を植樹し、広く江戸市民に開放したことから、飛鳥山は江戸随一の花見のメッカとなったのだそうです。

王子駅から飛鳥山公園へは徒歩でもすぐ登れますが、「あすかパークレール」という名前の可愛らしいモノレールも設置されています。高齢者、障害者や小さなお子様連れなど誰もが飛鳥山公園を利用しやすくするために設置された昇降設備で、無料で利用できます。昨日もお花見に向かうお年寄りや子ども連れの人々で長蛇の列ができていました。


モノレールは飛鳥山の頂上付近に到着します。花壇もきれいに整備されていて、大勢の人々がシャッターを切っている姿が印象的でした。桜はここも3分~5分咲きといった感じですね。


さすがは花見の名所です。飛鳥山公園内には約650本の桜が植えられていますが、どこもかしこも花見を楽しむ人々であふれかえっています。私も、一杯やりたくなりました。


園内の通路は、「桜のトンネル」になっていて、大勢の花見客が行き交っています。


ちょうど、3月29日と30日の2日間、飛鳥山公園のイベント広場では、「北区・さくらSA*KASOまつり」という催しが開催されていて、多くの人々が楽しんでいました。


折角、王子に来たので、先ほどご紹介した飛鳥山公園のすぐ北側にある王子神社にも行ってきました。


王子神社の創建は不詳ですが、元亨2年(1322年)に、当時の領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え「若一王子宮」とし、熊野にならって景観を整えたといわれます。呼んだと記されています。「王子」の地名も熊野に由来するのですね。戦災により多くの建物が焼失したそうで、現在の社殿は、昭和39年に再建されたものです。


王子神社の下を流れる石神井川は、この付近では特に音無川と呼ばれていて、現在は音無親水公園として整備されています。これも熊野本宮大社の旧社地・大斎原を流れる音無川にちなんで名付けられたものです。こちらの桜もとてもきれいでした。


3回にわたってご紹介した「吉宗ゆかりの桜の名所シリーズ」いかがでしたか。東京の桜の名所が、紀州と非常につながりが深いことがおわかりいただけたと思います。
今日の東京はあいにくの雨模様ですが、桜はもうすぐ満開となり、今週いっぱいは楽しめると思います。吉宗が故郷・紀州を思って作った桜の名所を、皆さんもぜひ訪れてみてください!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 東京通信員 at 09:37Comments(0)東京事務所通信

2014年03月29日

東京の紀州散策(25)吉宗ゆかりの桜の名所(2)【隅田川の桜堤】墨田区

「東京の紀州散策(24)吉宗ゆかりの桜の名所(1)【御殿山】」に引き続き、本日(3/29)午後に訪れたのは、「隅田川の桜堤」です。

隅田川の堤防は「墨堤(ぼくてい)」と呼ばれていますが、墨堤の桜は、現在の東京でも、千鳥ヶ淵や上野公園と並ぶ桜の名所です。桜が植えられているのは、右岸は台東区浅草から花川戸にかけて、左岸は墨田区向島1,2,5丁目にかけてで、この一帯は隅田公園となっています。


今日の東京は、昨日に引き続き天気もよく、汗ばむぐらいの陽気で、絶好のお花見日和でした。浅草駅から隅田川に向かう道は日頃にもまして花見客でいっぱい。隅田川には屋形船が集結し、川からのお花見を楽しんでいます。この写真は、墨田区側から台東区浅草を写したものです。


八代将軍吉宗が墨堤に桜を植えたのは、左岸の墨田区側だそうで、享保2年(1717年)に、護岸保護と庶民の行楽を目的に、100本の桜を植えましたのがはじまりだそうです。そこで、私も左岸をずっと歩きました。

桜を見上げると、すぐそこに東京スカイツリーが見えます。


ちょうど、3/28から墨田区側の墨堤では、「花のお江戸の墨堤さくらまつり」が開催されています。墨堤の桜並木には、提灯が掲げられ、ところどころに売店が開かれています。お花見には大勢の人が押し寄せていますので、歩くのも大変なくらいですね。


今日の時点では5分咲きといったところでしょうか。それでも多くの人が桜の花にカメラを向けていました。


隅田公園の一角に「墨堤植桜之碑」という石碑が建っています。これは、明治20年(1887)に建てられたもので、揮毫は五稜郭の戦いで知られる榎本武揚によるものです。石碑には、墨堤の桜がどのように守られてきたのかが詳しく記されているとのこと。最初に吉宗によって植えられた墨堤の桜が、地元の村の有志の人々により次々と植え続けられ、大切に守られてきたことがわかり、ちょっと胸が熱くなりました。


こちらが、桜橋(歩行者専用の橋)から墨田区側の墨堤を撮影した写真です。隅田川に集結した屋形船の数には驚かされますね。墨堤の桜が満開になると、きっと桜が帯のように連なっているのでしょうね。もう一度撮影しに来たくなりました。


吉宗が故郷・紀州の長保寺を懐かしむとともに、江戸の人々の楽しみのために植えたことによりできた墨堤の桜は、これからも東京の人々を楽しませ続けることでしょう。
このあと、私は残る吉宗ゆかりの桜の名所である北区王子の「飛鳥山公園」へと向かいましたが、そのレポートは明日お届けします!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 東京通信員 at 23:55Comments(0)東京事務所通信

2014年03月29日

東京の紀州散策(24)吉宗ゆかりの桜の名所(1)【御殿山】品川区

東京では3月25日午後に桜の開花宣言が出されて、その後も温かい日が続いています。今日(3/29)も昨日に引き続き晴天に恵まれたので、都内の桜も一気につぼみを広げています。
そんな陽気に誘われて、私も今朝から1日かけて、東京の桜の名所を巡ってきました。実は東京の桜の名所には徳川吉宗ゆかりの場所が結構あるのです。

吉宗と桜にどんな関係があるのか、と思われるでしょうが、実は江戸の各地に桜を植えさせ、お花見を奨励したのは吉宗なのです。
その理由はいくつかあるようです。一つには桜を植えることにより江戸の華といわれた火事の延焼を防ごうとしたこと、もう一つは元禄バブル経済の崩壊により疲弊した人々の心を桜の花で癒やそうとしたことなどです。

吉宗が「桜」にこだわったもう一つの理由は、ふるさと紀州にある桜の名所長保寺で、桜に親しんで育ったことなのだそうです。長保寺といえば、海南市下津町にあり、紀州徳川家の菩提寺として知られています。境内には400本の桜が植えられ、国宝の大門から境内へと続く参道は、桜の花のトンネルとなることで知られています。今年も4/5(土)に「長保寺さくらまつり」が開催されます。

(写真は、長保寺さくらまつり実行委員会facebookページより転載。)

吉宗は、この寺の桜を偲び、江戸のあちこちに桜を植えさせたのだそうです。その代表的な場所が、隅田川の桜堤(墨田区向島)飛鳥山(北区王子)御殿山(品川区北品川)の3か所です。そこで、私はまず午前中に、宿舎に一番近い品川区の「御殿山」に行ってきました。

御殿山は地番でいえば品川区北品川3丁目から4丁目にかけての場所で、高輪台地のいちばん南端に当たります。


地名の由来は江戸時代初期に徳川家康が建立したと伝えられる「品川御殿」があったことによるそうです。この品川御殿は元禄15年(1702年)に焼失しました。桜は寛文年間(1661-1673年)から奈良の吉野山から移植されたのが最初ですが、庶民の花見の場所として整備したのは、八代将軍吉宗で、さらに植樹を行い、江戸の桜の名所として知られるようになったそうです。葛飾北斎の「富嶽三十六景」にも、「東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)」があります。

(写真は、品川区ホームページ「東海道品川宿のはなし 第7回」より転載。)

ところが、御殿山は、江戸末期にお台場建設のための土砂採取場となり、さらに明治に入ると鉄道建設により東西に分断されてしまいました。
そのため、現在は広い公園のような場所はなくて、閑静な高級住宅地となっています。御殿山のランドマークは森トラストグループが手がける御殿山トラストシティです。こちらの写真は、御殿山トラストシティ南側の御殿山庭園から、東京マリオットホテルを眺めた写真です。このあたりの桜は3~5分咲きといったところでした。


御殿山の中央をL字型に通る通称御殿山通り沿いには、桜が数多く植えられています。こちらは、先ほどご紹介した御殿山庭園の南側の桜の古木並木。「保存樹」という看板が掲げられていました。


写真左手がミャンマー連邦大使館。庭から御殿山通りの方へと桜の枝が張りだしていて、桜のトンネルになっています。


こちらは神戸製鋼東京本社ビルを眺めた写真。東京の桜ですね。


こちらは、鉄道に切り取られた東側にある権現山公園です。まだ3分咲きといった感じで、花見客もいませんでした。



御殿山の桜、いかがでしたか? 桜の名所だった江戸時代と比べると、何とも寂しい限りですが、これも時代の流れなのでしょうね。それでも権現山通り沿いは桜街道ですので、少しは雰囲気は味わえると思います。ウェザーマップ提供の「さくら開花予想2014」よれば東京の満開予想日は3/31(月)のことですので、見頃は来週いっぱいでしょう。

このあと午後に、私は残る隅田川の桜堤(墨田区向島)飛鳥山(北区王子)に出かけましたが、こちらのレポートは後ほどお届けします。

(文責:東京事務所 林 清仁)
  
Posted by 東京通信員 at 21:22Comments(0)東京事務所通信

2014年03月02日

東京の紀州散策(23)世田谷区の「淡島通り」と森巌寺の「淡島堂」

明日3月3日は「ひなまつり」。和歌山市加太にある淡嶋神社では、恒例の「雛(ひな)流し」神事が行われ、大勢の人が訪れます。今年は東京勤務で行くことができません。淡嶋神社は、全国に1000社余りあるといわれる淡島(嶋)神社・粟島神社・淡路神社の総本社ですので、東京近郊にも淡嶋神社ゆかりの場所はないかと調べていると、何と、世田谷区に「淡島通り」という通りがあるということで、今日ちょっと行ってみました。

通称「淡島通り」は、正式には東京都道423号渋谷経堂線といい、渋谷区神泉の旧山手通りから東へ進み、目黒区に入ると東京大学駒場キャンパスの南側を通って世田谷区に入り、茶沢通り、環七通りと交差して、小田急線経堂駅前まで続く道です。特に世田谷区の環七までの区間を「淡島通り」と呼ぶようです。

大きな地図で見る

こちらが渋谷区神泉のスタート地点です。片側1車線の道路で、バスが結構走っています。


目黒区を抜けて、世田谷区に入るとすぐ、「淡島交番前」という標識が現れます。


こちらがその「淡島交番」。正式名称は「警視庁北沢警察署淡島通交番」ですね。通称の「淡島通」という名前がこのあたりでは普通に使われていることがわかります。


交番を過ぎるとすぐ「淡島交差点」です。


この交差点のまわりは「淡島」だらけです。バス停、郵便局はもちろんお店や会社の名前にも「淡島」が使われています。和歌山市加太の「淡嶋神社」を思い出しながら、東京でこんなにたくさん淡島に出会えたことを、少しうれしく感じました。


では、なぜこのあたりが「淡島」と呼ばれるようになったのかというと、この淡島通りのすぐ北側に、森巌寺(しんがんじ)というお寺があり、ここにある「淡島堂」が江戸時代からとても有名だったことから名付けられたそうです。そこで、今度は森巌寺へと行ってみました。

森巌寺は、正式には八幡山浄光院森巖寺という浄土宗の寺院です。場所は、京王井の頭線・小田急線の下北沢駅南口から南に歩いて8分ぐらいの所にあります。


ここは、1608年(慶長13年)に徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として建立されたのだそうです。さすがに徳川家ゆかりのお寺ということで、境内も結構広く、数多くの巨木がそびえ立っています。


江戸時代の森巌寺は、灸と針供養で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったのだそうです。特に灸は「淡島明神の灸」として知られていたそうで、『江戸名所図会』は次のような由来が伝えられています。
森巌寺の開山・孫公和尚紀州名草郡加太の人で、常日頃、腰痛に苦しんでいた。和尚は淡島明神に熱心に祈願を続けたところ、ある夜の夢に淡島明神が現れて灸の秘法を伝授した。和尚は淡島明神の夢告に従って灸を試し、積年の腰痛はたちどころに完治した。和尚はこの霊験に深く感謝し、加太から淡島明神をこの地に勧請して淡島堂を建立した。(wikipedia「森巌寺 (世田谷区)」より転載。)
こんな風に江戸時代から淡島堂は知られていたのですね。寺門には、「粟嶋の灸」という看板が掲げられていますし、門の左には「淡島大明神」と書かれた石碑もあります。


さて、門を入って左手にあるのが孫公和尚ゆかりの「淡島堂」です。1836年(天保7年)の建築で、森巌寺に現存する建物では最古のものです。仏堂のように見えますが、拝殿・幣殿・本殿を持つ神社の形式でつくられているそうです。ちょうど梅の花の時期だったので、紅梅がきれいに咲いていました。


森巌寺は、針供養でも有名ですが、これも淡島堂での法要です。江戸時代には針仕事をしていた方が毎年2月8日だけお休みし、針の供養に訪れました。現在では針を使うことが減った為、法要を通して身のまわりの物への感謝、大切にする事をお参りの方々や子供たちに伝えているそうです。1999年(平成11年)11月24日に世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定されています。上の写真では、淡島堂右側に「針塚」が見えますね。

こちらは本堂。越前松平家の祖である結城秀康ゆかりの寺だけあって、葵の紋所が輝いていました。



いかがでしたか。加太出身の開山・孫公和尚が故郷の淡嶋神社を勧請して開いた「淡島堂」と、その名を冠した「淡島通り」。現在の東京で和歌山がしっかりと伝わっているのですね。お近くの皆さん、一度行ってみてください。

そして、明日3月3日に、和歌山市で行われる「淡嶋神社の雛流し」にも、ぜひ行ってみてください。私が一昨年行った際のレポートは『今日はひなまつり!和歌山市・淡嶋神社の「雛流し」レポート!』に掲載していますので、ご参考にしてください!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 東京通信員 at 21:56Comments(0)東京事務所通信

2013年11月24日

東京の紀州散策(22)「六義園」ライトアップ12/8まで

東京の紀州散策、第22回目は、東京・文京区駒込にある国指定の特別名勝「六義園(りくぎえん)」で、一昨日(11/22)から始まった「紅葉と大名庭園のライトアップ」をご紹介します。

私が今年の2月に六義園を訪れた際のレポートは、『東京にある和歌山探訪(2)~和歌の浦を模した庭園「六義園」』でご紹介していますが、その時は真冬で、ガイドさんからは「紅葉の時期はすてきだよ!」と聞かされていました。幸い、今日(11/24)の東京は日中は小春日和で、夕方になっても穏やかな天気が続いていましたので、ライトアップされた紅葉を見るために、六義園へと出かけました。

私が到着したのは午後4時30頃、少しずつ空が暗くなっていく時間帯です。通常は午後5時に閉園する六義園ですが、ライトアップの期間は午後9時まで開いているため、多くの人々が訪れています。真冬に来たときとは大違いです。


園内に入ってすぐ右手には、和歌山県の東京アンテナショップ「わかやま紀州館」が出張販売を行っています。閉園の午後9時まで販売しているとのこと。皆さん、ぜひご利用ください!!


和歌山ゆかりのものをもう一つ。ただいま六義園では、『【六義園】ゆかりの地 和歌山市(和歌の浦)パネル展』が開催されています。六義園には、「和歌の浦」をはじめ驚くほど多くの和歌山の地名が数多くつけられていますが、その由来がパネルで紹介されています。園内を巡る前に見ていただければ、六義園をより深く楽しむことができますよ。


さて、六義園の紅葉はまもなくピークを迎えるといった感じです。庭園への門を入ってすぐのところにあるもみじは、真っ赤に色づいてとてもきれいです。


午後5時が近づいてくると、園内は少しずつ暗くなっていきます。池の対岸が和歌浦の片男波と妹背山です。


こちらは、紀ノ川上流。このあたりの紅葉は、ライトアップに映えてとてもきれいです。


園内は、様々なライトアップがされていて、歩いていても飽きることはありません。


園内をゆっくり一周して約1時間、午後5時半になると、あたりはすっかり暗くなりました。ところが来場者はどんどん増えて、歩くのもやっとという状態です。やっぱり東京は人口が多いんですね。


片男波と妹背山もすっかり暗くなりました。上段がデジカメで撮った写真、下段がiPodで撮った写真です。下段の方が実際の色あいに近い感じですが、もちろん実物はもっときれいですので、ぜひ行ってみてください。



いかがでしょうか。和歌山と非常に縁の深い特別名勝「六義園」のライトアップ。12月8日(日)まで開催されていますので、ぜひ行ってみてください!!
六義園 紅葉と大名庭園のライトアップ 11/22~12/8
期間:平成25年11月22日(金)~12月8日(日)
    *期間中は、開園時間を21時まで延長します。(最終入園は20時30分)
     また、駒込駅から徒歩2分の染井門を開門します。
    *16時30分以後、安全確保のため立ち入りを制限する区域があります。
内容 ①ライトアップ
     時間:日没~21時まで
    *節電に協力するため、LEDを多く使用します

    ②もみじ茶屋 *荒天時・雨天時中止の場合あり
     時間:11時~20時(ラストオーダー19時30分)
     場所:吟花亭跡付近
     内容:軽飲食の販売

    ③抹茶茶屋
     時間:吹上茶屋9時~20時30分(ラストオーダー20時)
        心泉亭[平日]12時~20時(ラストオーダー19時30分)
            [土日祝]10時30分~20時(ラストオーダー19時30分)
     内容:抹茶と和菓子のセットの販売
    
    ④お土産処
     時間:9時~20時
     場所:サービスセンター前
     内容:六義園オリジナル商品の販売等お土産品の販売

所在地: 東京都文京区本駒込六丁目
交通 JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」(N14)下車 徒歩7分
    都営地下鉄三田線「千石」(I14)下車 徒歩10分
お問い合わせ: 六義園サービスセンター TEL 03-3941-2222
           〒113-0021 東京都文京区本駒込6-16-3

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 21:37Comments(0)東京事務所通信

2013年10月27日

東京の紀州散策(21)紀州藩赤坂邸を移築した日光田母沢御用邸

東京の紀州散策の第21回目は少し遠出をして、栃木県日光市にある「日光田母沢(たもざわ)御用邸記念公園」に行ってきましたので、そのレポートをお届けします。

今年5月に、このブログの「東京の紀州散策(2) 港区元赤坂の赤坂御用地と迎賓館赤坂離宮」の中で、現在の赤坂御用地はもとは紀州徳川家の江戸屋敷(赤坂邸)であったことや、現在赤坂御用地に残っている紀州徳川家の建物は「迎賓館東門」だけだということをご紹介しました。

ところが、あとから、紀州徳川家赤坂邸の建物が日光市にある旧日光田母沢御用邸に移築され現存していることを知りました。日光までは少し距離があるので行くのを躊躇していたのですが、秋の行楽シーズンになり、紅葉も見頃との情報を見ましたので、関東地方に久々に晴れ間が戻った今日(10/27)、日光まで出かけました。浅草駅から東武鉄道に乗って2時間余りで東武日光駅に到着。バスに乗り換えて国道沿いに西に約3km先、世界遺産・日光東照宮を通り過ぎ、田母沢バス停を降りてすぐのところに日光田母沢御用邸記念公園があります。


こちらの写真が正門です。敷地内には高い木々が生い茂り、とても閑静な雰囲気です。静養地としては最適な場所ですね。


こちらが正面入口の車寄せです。純和風の堂々とした造りが印象的です。


日光田母沢御用邸は、1899年(明治32年)に嘉仁親王(大正天皇)の夏のご静養地として造営され、1947年(昭和22年)に廃止されるまでの間、3代にわたる天皇・皇太子がご利用になった場所です。御用邸廃止後は、博物館や宿泊施設、研修施設として使用されていましたが、栃木県が3年の歳月をかけ、御用邸が最大の面積であった1921年(大正10年)の姿に復元・整備し、平成12年(2000)に記念公園として一般公開しました。
その規模は建築の床面積にして4,471平方メートル(約1,360坪)で、明治期に造営された御用邸の中でも最大規模であり、1棟の床面積としては我が国最大規模の木造建築物であり、現存する唯一の建物なのだそうです。

中核となっている建物は、紀州徳川家赤坂邸の中心部分で、1810年(天保11年)に建築されたものです。1872年(明治5年)に皇室に献上された後は、赤坂離宮、仮皇居、東宮御所として、一部増築しながら使用されていましたが、田母沢御用邸の造営のため、1898年(明治31年)に解体され、移築されました。その際に、もともとこの地にあった小林家別邸の建物も取り込み、一つの建物として作られたのです。さらに、1918年(大正7年)から大規模な増改築が行われて、現在の姿となっています。その結果、一つの建物の中に江戸・明治・大正の3つの時代の建築様式がみられるとても貴重な建造物として、2003年(平成19年)には、国の重要文化財に指定されています。

パンフレットには場所ごとの建築」年代が記されていますので、転載させていただきます。紀州徳川家赤坂邸の部分は赤色の部分で、この建物で唯一3階となっているところです。1階が天皇陛下が日常的な公務をお執りになる御座所と御学問所、2階が天皇陛下の寝室など、3階が展望室ですから、まさに御用邸の中核として使われていたことがわかります。

(画像をクリックすると拡大表示します。)

さて、前置きが長くなりましたが、紀州藩邸移築部分の内部をご紹介しましょう。
こちらが、1階の「御座所(ござしょ)」(奥)と「御次の間」。天皇陛下が日常的な公務をお執りになった場所です。


1階から2階に階段を上ってきたところ。


2階の「御寝室」(奥)と「御次の間」。寝室には照明器具はなく、燭台を用いていたそうです。



寝室の隣にある「劍璽(けんじ)の間」。「三種の神器」のうち、剣と勾玉を奉安する場所です。


2階の「御日拝所」。ご先祖を遙拝された場所です。


3階の「御展望室」は、普段は非公開です。急な階段を上っていきます。


紀州藩邸で使われていた襖絵もそのまま使用されていました。


こちらは、庭から見た紀州藩邸移築部分です。紀州徳川家の栄華が忍ばれます。


庭園の木々は少しずつ色づいていました。あと1週間もすれば紅葉がとてもきれいでしょうね。


以上が、日光田母沢御用邸のレポートです。今回は紀州藩邸部分をご紹介しましたが、その他の部分も、時代ごとの特徴があって、見所満載です。日光観光といえば、どうしても世界遺産の日光東照宮や、その先の中禅寺湖、華厳の滝がメインになってしまいますが、日光田母沢御用邸にも一度立ち寄ってみてください。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
Posted by 広報ブログ編集長 at 23:39Comments(0)東京事務所通信

2013年10月14日

東京の紀州散策(20)根来寺開祖・覚鑁ゆかりの等々力不動尊

東京の紀州散策第20回目は久々に東京都内に戻って、世田谷区等々力(とどろき)の等々力不動尊をご紹介します。
場所は、東急大井町線等々力駅から南に歩いて10分ぐらいの場所にあります。この地は、等々力渓谷と呼ばれる東京23区唯一の自然あふれる渓谷があり、等々力不動尊もこの渓谷のすぐ東側にあります。


等々力不動尊は、正式名称を滝轟山等々力不動尊明王院といい、真言宗智山派のお寺です。こちらが山門です。


山門には、「瀧轟山」という山号が大きく記されています。


こちらが本堂。「不動尊」と書かれた大きな赤い提灯が印象的です。人々が次々に参拝に訪れています。


この等々力不動尊、実は真言宗中興の祖であり、岩出市にある新義真言宗総本山の根来寺の開祖としても知られている覚鑁(かくばん)上人(興教大師、1095~1144)が当地に不動堂を建立したのが始まりと伝えられます。

寺の縁起によれば、本尊の不動明王は役行者の作と伝えられています。もとは大和国(または山城国)にあったのですが、ある夜、覚鑁(かくばん)上人が、夢でこの不動明王から、「武蔵国調布の丘」に祀るようにとのお告げを受けたのだそうです。そこで上人はこの不動尊を背負って、武蔵国にやってきたところ、夢で見た土地を発見、持っていた錫杖で岩を突いたところ、そこから滝が流れ始めたため、そこに不動明王を安置したのが始まりだそうです。

役行者の話はともかく、この東京に覚鑁(かくばん)上人ゆかりの地があるとは驚きです。寺の西側にある石段を、等々力渓谷の方に降りていくと、伝説に登場する二筋の不動の滝があります。普は相当な水量があったらしく爆音が轟いたので「トドロキ」の地名が生まれたとの説もあるそうです。


不動の滝がある等々力渓谷は、多摩川へ流れ込む谷沢川が、河岸段丘を削り取って作った渓谷です。このあたりが特に急峻であったため、宅地開発を免れ、東京23区唯一の渓谷として残されています。世田谷区も公園として整備し、渓谷沿いには遊歩道が設けられています。今日も多くの人々が散策に訪れていました。


みなさんも、覚鑁(かくばん)上人ゆかりの等々力不動尊と不動の滝、そして等々力渓谷に一度出かけてみてください!!

(文責:東京事務所 林 清仁)  
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2013年10月12日

東京の紀州散策(19)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水④

これまで3回に分けてご紹介してきました、江戸時代の治水家で「紀州流」土木技術の祖といわれる井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそうべえ ためなが)が開いた見沼代用水(みぬまだいようすい)を訪ねるシリーズですが、いよいよ第4回で最終回を迎えます。
第4回は、見沼代用水東縁(ひがしべり)のレポートです。下の見沼代用水全体図では、「④見沼代用水東縁 28.4km」と書かれている部分です。(下の地図をクリックすると拡大表示されます。)

より詳しい地図はGoogle マップ「見沼代用水」をご覧ください!!

見沼代用水は、上尾市瓦葺で西縁と東縁の二手に分かれます。このうち東縁はほぼ南東の方向に進み、さいたま市見沼区、緑区を通って、川口市を縦断、最後は東京都足立区まで続いています。今回も分岐箇所から下流へと下っていきたいと思います。

分岐してすぐの東縁は、水田地帯を流れていきます。稲刈りを終えた水田が広がっていて、遠くにはJR東北本線の線路が見えます。


分岐から1.5kmほど下流で、さいたま市見沼区に入ります。見沼区は旧大宮市東部で、芝川と代用水東縁に囲まれた台地が中心です。昭和30年代から宅地化が進み、現在は首都圏のベッドタウンとなっているところです。見沼代用水東縁も住宅地を流れていきます。ちょうどコスモスの花の時期で、とてもきれいです。


分岐から約7km、七里(ななさと)総合公園を過ぎたところで、風景が一変します。このあたりは、代用水が開かれたあとに作られた「加田屋新田」と呼ばれる場所で、「見沼田んぼ」が最もよく保存されている場所です。まだ稲刈り前なので、黄金色の稲穂がきれいですね。


実は、ここ「加田屋新田」は、和歌山と非常にゆかりの深い場所なのです。この地を開墾した坂東家紀州名草郡加太村(現在の和歌山市加太)出身で、江戸時代の初め日本橋で干鰯(肥料)問屋を営む商人で、故郷の地名をとって屋号を「加田屋」といいました。その加田屋が開いた新田なので、加田屋新田という名前なのです。

さいたま市ホームページの「坂東家と加田屋新田」によれば、見沼代用水が開かれたとき、坂東家の三代当主助右衛門尚常がこの地の新田開発を幕府に願い出て許可されます。そして65町2反余(約65ヘクタール)を開発し、江戸での屋号をとって「加田屋新田」と命名し、代々この地の名主を務めるとともに、このあたりの代用水の見まわり役を幕末まで務めます。また、13代目新助、14代目貞市は、大正から昭和にわたり、北足立郡片柳村の村長を務めたのだそうです。

見沼代用水東縁の西、加田屋川を越えた台地に、安政4年(1857)に建築された旧坂東家住宅が残されています。現在は「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」として一般公開されています。

(写真はさいたま市ホームページより転載。)

それにしても、流れる川は「加田屋川」、地名は「見沼区加田屋」「見沼区加田屋新田」ですから、埼玉県内に和歌山市加太の飛び地があるような感じがします。見沼代用水関係では、井沢弥惣兵衛はもちろん、前回のブログ「東京の紀州散策(18)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水③」でご紹介した鈴木家など、紀州出身の人々が大活躍してきたことを知り、とても嬉しくなりました。

さて、見沼代用水の加田屋新田沿いに「見沼弁財天」があります。井沢弥惣兵衛は、見沼代用水を開いた際に、水路沿岸の要所に弁天社を祀り、水路の安定と豊作を祈願したそうです。このような弁天社が7箇所あったことから、総称して「見沼七弁天」と呼ばれています。「東京の紀州散策(17)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水②」では「見沼弁財天(別名 星川弁天)」をご紹介しましたが、ここの見沼弁財天は、溜井弁天と呼ばれています。現在の社殿は昭和54年に建築されたものです。


それにしても、このあたりの水田風景は見事です。西縁沿いは畑が多かったのですが、東縁沿いは水田がしっかりと残っています。東京からすぐ近くの政令指定都市にこんなところがあるのは驚きです。私のように田んぼの真ん中で育った人間にとっては、なつかしい風景ですが、都会の人々にとっては、癒しの風景になるのでしょう。土手沿いの彼岸花は咲き終わったところでした。あと1週間早ければきっと赤い絨毯のように見えたでしょうね。


さいたま市見沼区から緑区に入ってすぐのところに「見沼自然公園」がありますが、そのほぼ中央には、井沢弥惣兵衛為永の銅像が建てられています。建立されたのは平成17年ですからつい最近ですが、現在でも井沢弥惣兵衛が、この地の人々に尊敬されていることの表れだと思います。さいたま市の小学校では、歴史の副読本で井沢弥惣兵衛のことを勉強するそうなので、当然のことかも知れません。


この後、『東京の紀州散策(14)井沢弥惣兵衛が開いた「見沼通船堀」』でご紹介した見沼通船堀までの間は、水田や畑地が続きます。水路沿いのフェンスに刈り取った稲を干している面白い風景がありましたのでご紹介します。


見沼通船堀を過ぎると、見沼代用水東縁は川口市を縦断しますが、西縁同様に、水路の両側には農地はなくなり、住宅地が続きます。水路沿いの桜並木は延々と続いています。


そして、いよいよ水路の終点、東京都足立区の舎人堰(とねりぜき)水門に到着です。この写真は、下流側から撮った写真です。


以前は見沼代用水は足立区古千谷本町の「はんの木橋」付近まで続いていたのですが、宅地化により周辺に農地がなくなったため、その流路跡約1.7kmが「見沼代親水公園」として昭和59年3月に区民の憩いの場として整備されました。代用水は役割を変えて生まれ変わったわけです。



足立区郷土博物館ホームページの「見沼代用水」の項目に、昭和30年代の「はんの木橋」付近の航空写真が掲載されています。今は宅地しかありませんが、この当時は水田地帯だったのですね。

(写真は足立区郷土博物館ホームページより転載)

4回にわたってご紹介してきた「見沼代用水」、いかがでしたか。流域をずっと巡って感じたことは、井沢弥惣兵衛の残した代用水が、300年近く経った今日も人々の生活に大きく関わっていることです。また、井沢弥惣兵衛以外にも、多くの紀州出身の人たちが、この地に足跡を残していることを改めて知らされました。
私たちも、紀州の先達に負けないように和歌山のために頑張りたいなと、決意を新たにしました。

最後に、井沢弥惣兵衛為永についてもっと深く知りたいという方のために、井澤弥惣兵衛為永翁銅像建立委員会が平成17年に作成した記念誌「井沢弥惣兵衛」をご紹介します。絵本ではありますが、子供のころの弥惣兵衛のエピソード、紀州藩時代の業績、見沼代用水やその他の用水の整備について、詳しく掲載されていますので、この機会にぜひご覧ください。(PDFファイルで見ることができます。)


(文責:東京事務所 林 清仁)  
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2013年10月06日

東京の紀州散策(18)井沢弥惣兵衛が開いた見沼代用水③

江戸時代の治水家で「紀州流」土木技術の祖といわれる井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそうべえ ためなが)が開いた見沼代用水(みぬまだいようすい)を訪ねるシリーズの第3回目。今回は、見沼代用水西縁(にしべり)約25kmのレポートをお届けします。前回作成した全体図では、「⑤見沼代用水西縁 25.1km」と書かれている部分です。(下の地図をクリックすると拡大表示されます。)

より詳しい地図はGoogle マップ「見沼代用水」をご覧ください!!

見沼代用水西縁は、芝川の西側の丘陵地に沿って作られた用水路です。埼玉県上尾市をスタートし、さいたま市北区、大宮区まではおおむね南に向かって流れていまが、、浦和区で東に進路を変え、緑区をに入って再び南へと流れ、川口市に行くと西向きに流れを変えます。

今日はまずは前回の終点の上尾市瓦葺の西縁と東縁の分岐点からスタートです。このあたりは収穫を終えた水田が広がっています。左奥に見えるのが東縁の桜並木です。


分岐から約2.5km、住宅地を抜けた西縁は、さいたま市北区に入ります。そしてJR東日本の東大宮操車場(正確には大宮総合車両センター東大宮センター)と交差します。電車好きにはたまらない風景ですね。


操車場を越えたところで少し脱線です。西縁から500mほど西側のさいたま市北区本郷町には、「淡島神社入口」という名前のバス停があります。淡島神社といえば、和歌山市加太にある淡嶋神社が全国の淡島神社の本社です。バス停の北東150mのところに本郷神社という神社がありますが、昔は「淡島社」と呼ばれていたそうです。明治32年に他の神社と合祀され、名前も本郷神社と変わったそうです。しかし、バス停を見ると、加太にやってきたのかと思いますね。きっとここも、代用水ができた頃に、紀州の人が作った神社なのでしょう。(写真を撮るのを忘れましたので、Google ストリートビューの画像でご容赦ください!!)


さいたま市大宮区では、下流に向かって右側(西側)の丘陵地が住宅地、左側(東側)が公園やスポーツ施設という風景が続きます。その間にところどころ農地が残っています。この写真は見晴公園のある場所から東側を撮ったものですが、このあたりは水田と言うより畑地ですね。


西縁は、このあとさいたま新都心に近づきます。高層ビルが間近に見えるのも変な感じです。


浦和区に入ってすぐのところに、大原サッカー場がありますが、ここはJリーグ・浦和レッズの専用練習場になっています。クラブハウスもあって、ちょっとうれしくなりました。


大泉サッカー場を過ぎると、西縁は芝川に沿って東へと流れを変え、さいたま市緑区へと入ります。住宅地からもどんどん離れていくので、農地が広がり、政令指定都市とは思えない田園風景が広がっています。埼玉県は1965年に「見沼三原則」を制定し、見沼地区の農地転用を制限、さらに1995年に「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定して保全を継続しています。そのため、この地域は首都圏最大と言われる緑地帯となっているのだそうです。埼玉県にとっても見沼代用水は非常に重要なものなのですね。これも井沢弥惣兵衛の功績だと思うと、和歌山県民として誇らしい気分です。
こちらは緑区のさいたま市民病院裏から撮った写真です。ここでも、用水沿いは桜並木です。


さて、東に流れてきた芝川は、支流である加田屋川と合流して、南へと流路を変えます。西縁も芝川に沿って、南へと流路を変え、以前『東京の紀州散策(14)井沢弥惣兵衛が開いた「見沼通船堀」』でご紹介した見沼通船堀にやってきます。
ここで、前回のブログに書き損ねたことをを一つご紹介します。見沼通船堀で、川船の差配を行っていた鈴木家住宅は通船堀の南側に今も残っていますが、この鈴木家は紀州の出身なのだそうです。詳しくは「Web版 武州路 10月号」の、14代目当主の鈴木甫さんの対談記事が掲載されていますので、ご覧ください。

鈴木家住宅(今もお住まいです。)


鈴木家住宅裏にある付属建物(土・日曜日公開 時間:10:00~16:00)


さて、西縁は川口市に入り流路を南西へと変えます。もう周囲に農地はほとんどなくなり、都市水路となっていますが、水路沿いには桜が植えられ、親水公園もあちこちに設けられています。こんな公園があちこちにあるなんてうらやましいですね。


西縁・東縁の分岐地点から25.1km、ここが川口市小谷場にある見沼代用水西縁の最終地点です。ここからは辻用水、新曽用水という2つの水路に分かれています。


以上が、見沼代用水西縁のレポートです。西縁沿いは都市化が進んでいて農業用水としての利用は少なくなっているように感じました。しかし、桜並木や公園など、住民の貴重な憩いの場を提供していて、これからも住民の生活には欠かせない存在なんだなと思いました。時代によって形を変えながらも、井沢弥惣兵衛の業績はずっと残っていくのでしょう。

見沼代用水レポート、次回第4回はいよいよ最終回となります。田園風景が残る東縁(ひがしべり)をご紹介しますので、お楽しみに。

(文責:東京事務所 林 清仁)  
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