2013年09月21日
東京の紀州散策(15)紀州徳川家の祈願寺・赤坂不動尊(港区)
東京の紀州散策の15回目は、港区赤坂4丁目にある赤坂不動尊(あかさか ふどうそん)をご紹介します。場所は、地下鉄赤坂見附駅から歩いて5分ぐらいで、繁華街として知られる赤坂一ツ木通り沿いにあります。和歌山県東京事務所のある都道府県会館からは歩いて10分ぐらいのところです。
行ってみると、一ツ木通りに面した場所に赤い柱の門があり、「赤坂不動尊」と書かれていますので、場所はすぐにわかります。
赤い門をくぐると、急な坂道に、提灯が連なるアーケードが続いていますが、これが参道です。
参道脇の地蔵さんの右側には、「紀州徳川家御祈願所」の石碑が建てられています。
この赤坂不動尊は、正式名称を智剣山威徳寺(ちけんざん いとくじ)といい、真言宗智山派のお寺です。本尊はもちろん不動明王ですが、何と天台宗を開いた最澄(伝教大師)作伝えられているそうです。
その後、慶長5年(1600年)、当時の住職であった良台法印が本尊の夢のお告げにより、現在地である武蔵国人継(一ツ木)に寺を移転しました。眼下に溜池を望む高台であったことから、池見山阿遮院と号したそうです。江戸幕府が開かれる前ですから、東京では非常に歴史がある寺ということになりますね。
江戸時代に入ると、紀州大納言(紀州徳川家)の祈願寺となったことから、人々に広く信仰されるようになり、大いに栄えました。人々はその威徳を尊んで、智剣山威徳寺と呼ぶようになりました。本堂内陣には、今も紀州徳川家奉納の厨子や仏具などがあるのだそうです。
本堂はこぢんまりとしていますが、江戸の火災や関東大震災、東京大空襲など、いくたびの災禍を免れています。まさにお不動様の霊験なのでしょう。その霊験あらたかなところが、きっと今も赤坂不動尊として信仰を集めている理由なのでしょうね。
以前ご紹介した赤坂氷川神社といい、この赤坂不動尊といい、赤坂という場所は、紀州徳川家が作った町なのだなということを改めて感じました。皆さんも、お暇があればぜひ訪れてみてください!!
(文責:東京事務所 林 清仁)
行ってみると、一ツ木通りに面した場所に赤い柱の門があり、「赤坂不動尊」と書かれていますので、場所はすぐにわかります。
赤い門をくぐると、急な坂道に、提灯が連なるアーケードが続いていますが、これが参道です。
参道脇の地蔵さんの右側には、「紀州徳川家御祈願所」の石碑が建てられています。
この赤坂不動尊は、正式名称を智剣山威徳寺(ちけんざん いとくじ)といい、真言宗智山派のお寺です。本尊はもちろん不動明王ですが、何と天台宗を開いた最澄(伝教大師)作伝えられているそうです。
延暦24年(805年)、最澄が唐から帰国の途中、暴風雨のため船が沈みそうになったとき、自分が作った不動明王像を海に沈めて祈願し、無事帰国した。その後、天安2年(858年)に、越後出雲崎の漁夫が、不漁続きの時に、毎晩不思議な光を見て探したところ、海の中から最澄が沈めた不動明王像を発見した。ここまで言い伝えが続くと、本当かな、と思いますが、言い伝えとして聞いておきましょう。
その後、永承6年(1063年)に、源頼義が、前九年の役の戦勝を祈願し霊験を得たので、下総国米沢(現在の東京都墨田区周辺)の寺にこれを祀った。さらに、鎌倉時代の文永11年(1274年)には、八代執権北条時宗も元寇の先勝を祈願した。
その後、慶長5年(1600年)、当時の住職であった良台法印が本尊の夢のお告げにより、現在地である武蔵国人継(一ツ木)に寺を移転しました。眼下に溜池を望む高台であったことから、池見山阿遮院と号したそうです。江戸幕府が開かれる前ですから、東京では非常に歴史がある寺ということになりますね。
江戸時代に入ると、紀州大納言(紀州徳川家)の祈願寺となったことから、人々に広く信仰されるようになり、大いに栄えました。人々はその威徳を尊んで、智剣山威徳寺と呼ぶようになりました。本堂内陣には、今も紀州徳川家奉納の厨子や仏具などがあるのだそうです。
本堂はこぢんまりとしていますが、江戸の火災や関東大震災、東京大空襲など、いくたびの災禍を免れています。まさにお不動様の霊験なのでしょう。その霊験あらたかなところが、きっと今も赤坂不動尊として信仰を集めている理由なのでしょうね。
以前ご紹介した赤坂氷川神社といい、この赤坂不動尊といい、赤坂という場所は、紀州徳川家が作った町なのだなということを改めて感じました。皆さんも、お暇があればぜひ訪れてみてください!!
(文責:東京事務所 林 清仁)