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2013年07月07日

東京の紀州散策(10)吉宗が社殿を建立した赤坂氷川神社

東京の紀州散策、今回ご紹介するのは港区赤坂にある赤坂氷川神社です。場所は、赤坂と六本木のほぼ中間に位置します。地下鉄だと、千代田線の赤坂駅、南北線の六本木一丁目駅、または大江戸線の六本木駅のちょうど真ん中ぐらいにあります。


赤坂氷川神社は、天歴5年(951年)、現在の赤坂4丁目の一ツ木台地に祀られたのが起源です。江戸時代に入り、紀州徳川家の赤坂邸(現在の赤坂御苑)からほど近いところにあったことから、紀州徳川家の産土神(うぶすながみ)として崇められてきました。そして徳川吉宗が8代将軍に就いた後、我が子・家重の産土神として、享保14年(1729年)に現在地に現社殿を造営を命じ、翌15年(1730年)に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、将軍吉宗も直々に参拝をしたとのこと。その後、歴代将軍の朱印状の下付を受けるなどしてきた神社です。
ですから、紀州徳川家とも、吉宗以降の将軍家とも非常につながりの深い神社ということになります。

こちらが赤坂氷川神社の正面の入り口です。境内には木々が生い茂り、とても静かです。すぐそばには赤坂や六本木があるとは思えないようなたたずまいです。


鳥居をくぐってすぐ右側には推定樹齢400年の大イチョウの木があります。この木は吉宗が社殿を建設する前から、この地に立っていたことになりますね。


そしてこちらが、吉宗が造営した社殿です。


東京都教育委員会が設置した看板には次のように掲載されています。
この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730年)に建てられました。吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ簡素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
  平成22年(2010年)3月 東京都教育委員会 
わたしには建築の詳しいことはわかりませんが、小さいながらもどっしりとした建物だな、という印象を受けました。


この神社には、紀州徳川家の赤坂邸で使われていた「櫓太鼓(やぐらだいこ)」が残されています。赤坂氷川神社のホームページによれば、明治2年(1869)頃に紀州藩から納めらたもので、太鼓の内面に墨書で「紀州邸 櫓太鼓 天保十亥年十二月吉日」「江戸浅草新町 丸山□右衛門」「御太鼓師重好」と記されているとのこと。時を告げる太鼓で、現在も毎日打ち鳴らされているそうです。私が行ったときには、拝殿の左奥に置いていました。


以上が、赤坂氷川神社のレポートです。都会のど真ん中に、こんなに木々が生い茂っている静かな場所があり、しかも紀州藩や吉宗の歴史に触れることができるところがあるとは驚きです。皆さんもぜひ訪れてみてください。

(文責:東京事務所 林 清仁)   
Posted by 広報ブログ編集長 at 17:47Comments(0)東京事務所通信