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2013年05月04日

東京の紀州散策(3) 新宿区・十二社熊野神社と中野区・成願寺

東京の紀州散策も第3弾となりました。今回はゴールデンウイークの休日を利用して、新宿区から中野区を歩きました。

まず向かったのは、新宿区にある新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社です。場所はJR新宿駅西口からまっすぐ西に歩いて15分ほど、新宿中央公園に隣接した北東側にあります。


「熊野神社」という名前の神社は、全国各地に3000社も分布しているそうですが、その多くが熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の祭神を勧請された神社なんだそうです。東京都内にも多くの熊野神社がありますが、今回訪れた新宿の十二社熊野神社はその中でも規模が大きい神社です。北西にある交差点は「熊野神社前」、交番の名前も「熊野神社前交番」、西側の通りは「十二社通り」ですから、どれもこの神社にちなんだ名前ですね。


とはいえ、西新宿の高層ビル街に隣接しているので、写真を撮れば必ず高層ビルが入ってきます。この写真の後ろには東京都庁が見えますね。真ん中の大きなイチョウの木が熊野神社の歴史を物語っているようです。


新宿十二社熊野神社のホームページに掲載されている由緒によれば、十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられているそうです。この鈴木家は、紀州藤代(藤白)で熊野三山の祠官をつとめる家柄だったとのことです。ここまで読めば、紀州と非常につながりが深いことがおわかりいただけると思います。

江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれて、幕府による社殿の整備や修復が行われるとともに、八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになったことから、とても賑わったのだそうです。今は神社のまわりはビルだらけですが、当時は池や滝もあり、武蔵野が広がっている風光明媚な場所だったのですね。

(十二社の池と滝。十二社熊野神社のホームページに掲載されている「江戸名所図会」より)

こちらが正面の参道の坂です。


坂を上っていくと、鳥居をくぐると、立派な拝殿が見えてきます。ちょうど私が行ったときは、結婚式が終わったばかりで、新郎新婦を囲んで記念撮影が行われていました。


拝殿に飾られている提灯には、ご存じ三本足の「八咫烏(やたがらす)」が描かれています。ただ、この八咫烏は熊野三山に描かれている図柄とは違い、雑賀孫市など、鈴木家の紋章として使われている八咫烏ですね。


新宿十二社熊野神社を後にして、次に向かったのはお隣・中野区にある曹洞宗の多宝山成願寺です。こちらは先ほどもご説明した中野長者鈴木九郎が建立したお寺です。熊野神社からは歩いて10分ほどで、神田川の対岸にあります。今はビルや住宅が建ち並んでいますが、鈴木九郎がいた室町時代なら、どちらもよく見通せたことでしょう。


このお寺は、山手通り沿い、首都高速道路の「中野長者橋」入口のすぐ西側にあります。下の写真の奥の大きな木があるところが成願寺です。


こちらが山手通りから見た成願寺。


境内はとても静かです。

さて、中野長者・鈴木九郎がこのお寺を建立したいきさつについて、成願寺ホームページの「成願寺の歴史」に書かれていますので、転載させていただきます。
成願寺の歴史
 およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。

 そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。
食べもののない日が何日も続くような、たいへんまずしい暮らしでした。九郎の馬もやせていて、あまり高くは売れません。

 ある日九郎はやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。
「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」

 大観通宝というのは中国のお金です。そのころは日本でも、中国のお金が使われていたのです。
 さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったより、ずいぶん高く売れました。
  (これは観音さまのおかげじゃ)
 九郎は大喜び。ところが受け取ったお金をよく見てみると、みんな大観通宝だったのです。

 (これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・)
 九郎は迷いました。約束どおり、観音さまにお金をあげてしまうと一銭も残りません。せっかく千葉まで馬を売りにきたのに、それではあんまりです。
 でも九郎はこう思いました。
(やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
 こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
 
 しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。

 それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。

 数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折した小笹の遺骨にまちがいないでしょう。
なかなか興味深い話ですね。境内の百観音堂には、子ども向けに「なかのちょうじゃと じょうがんじ」という絵本も置いてありました。住職さんにお話をすると、「どうぞお持ち帰りください」とのことでしたので、ありがたくいただきました。


なお、成願寺の境内にはもう少し詳しい鈴木九郎の伝記「中野長者ものがたり」が掲載されていました。こちらを読むと鈴木九郎は、財産を守るために多くの下僕を殺害したことや、そのたたりで小笹が蛇身となってしまったことなど、生々しい伝記となっていました。


以上、中野長者・鈴木九郎ゆかりの十二所熊野神社と成願寺のご紹介をしました。紀州・熊野出身とされる鈴木九郎のことが600年を経た今日も東京の地で語り継がれていることが、和歌山県民の私にとっては少し誇らしく感じた一日でした。

話は変わりますが、鈴木姓のルーツである、和歌山県海南市において、5月21日(火)・22日(水)の2日間、第7回全国鈴木サミット&鈴木フォーラムが開催されます。

(画像をクリックするとPDFファイルが開きます。)

今回は、スズキ株式会社会長兼社長の鈴木修氏が「スズキの海外進出」と題してご講演なさるそうです。他にも、サプライズイベントが用意されているという話を耳にしましたので、全国の鈴木さん、この機会にぜひ和歌山にお越しくださいね。

中野長者の鈴木九郎が生きていたら、きっと「全国鈴木サミット&鈴木フォーラム」に参加するだろうな、と思いながら、今日のレポートを終わります。

(文責:東京事務所 林 清仁)
  
Posted by 広報ブログ編集長 at 09:35Comments(0)東京事務所通信